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Biography

リサイタル


DOUBLE NEGATIVE are...
Kiyomiya Taku(drums)
Sakurada Haruki(guitar,vocal)
Ueno Kazuma(bass)


1997  都内の高校で運命的に出会った上野(bass)、櫻田(guitar)、清宮(drums)は、意気投合して「Beef Up The Careless By Energy」というオルタナバンドを結成する。しかし当時、どちらかと言えば音痴だった上野がメインボーカルを勤めていることや、バンド名がやたらに長過ぎることを理由に半年で解散を余儀なくする。

1998  年が明けてすぐにバンド名を「DOUBLE NEGATIVE」に改名するが、バンドのスタイルは依然として暗く重く、ライブハウスにモッシュピットやサークルが生まれることはなかった。同年4月、上野がニュージーランドに留学する。彼らは、上野が旅立つ直前に10曲入りデモテープ、「ダブルネガティブ」を完成させる。その後あえてメムバーを探すことはせず、活動を休止する。

1999  1年を待たずして、ホームシックを理由に上野が帰国。清宮と櫻田は高校を卒業。櫻田は進学、清宮は浪人、上野はニートとそれぞれが違った道を歩み始めるが、バンド活動は以前に増して活発になる。5月には、活動休止中にそれぞれが作曲した3曲入り2ndデモ、「DOUBLE NEGATIVE」をリリース。この頃からバンドの方向性がパンクやスカを基調とした明るいサウンドに変わっていく。

2000  ジャンルに関係なく自分たちが良いと思えるバンドを集めた企画、「Sink or Swim」をスタートさせる。

2001  松本(A.sax)、河野(T.sax)、松尾(T.bornで)が加入。念願の3ピース&ホーンという形態での活動が始まる。

2002  自主レーベル「NEGATRIBE」を設立し、4曲入りシングル「Hello, my friend! EP」をリリースする。しかし音質、音程、共々最悪という結果にメンバーは誰一人気付かず、300枚分きっちり恥をさらす結果となる。

2003  8月の慰安旅行で清宮が睾丸を腫らし入院する。10月、People's Recordsと契約。すぐさまフルアルバムのレコーディング準備に取りかかる。

2004  年明けから本格的なレコーディングを開始するが、ポスターやDM、ジャケットデザインなどを全て自分達の手で作りたいという欲求と、それに伴う膨大な構想やイメージ、それらを消化する前に肝心な歌詞を考えていないという予期せぬトラブルにより、思うように進まないまま1年が経ってしまう。T.bornの松尾がレコーディングを期に脱退。

2005  9月、レコーディング開始から約1年半の歳月を費やした超大作、「Don't peel it off, and Don't pull it off!!」を発売。柳瀬川で行われた「リリース記念ビールかけ」では出血者が出るほどの大盛況ぶりとなる。11月には渋谷AXで行われたNOFX来日ツアー「Fat Wreck Chords JAPAN TOUR 2005」を鑑賞。その足で彼らが滞在するホテルを直撃し、完成したばかりのアルバムと清宮直筆のコミック(FAT MIKEがやせてしまい、ダブネガの音楽を聴いてまた太りだすという内容)をFat Mike本人に渡すことに成功する。その後Fat Mikeから連絡はない。

2006  4月、リリースしたアルバムを引っさげ、怒濤の台湾ツアーを敢行。台北→台中→嘉義→高雄と、各所に点在するライブハウスや本屋を回り、さらに最南の懇丁で開催される巨大インディーズフェス、「Spring Scream Dog Festival」に参戦。数千人のオーディエンスの前で緊張感のあるライブを披露する。7月、Cutting Edgeの企画オムニバス、「Movie Ska」に参加。9月には結成9周年を記念して国内外の親しいバンドを集めた企画「DOUBLE NEGATIVE 9TH ANNIVERSARY GIG」を行う。10月には再び台湾、花蓮市で行われた「Wild Scream Festival」に参加。

2007  1月、年明け早々に昨年末から準備を進めていたPELOTANとのスプリットアルバムのレコーディングに取りかかる。その2日後、上野の自宅が全焼。集めていた鹿グッズなどが全て灰と化す。3日後のO-EASTで行われたライブで上野は、楽器から服、パンツに至るまで全て借り物で臨んだ。4月、トラブルに見舞われながらも何とかレコーディングを終えた彼らは、完成間もないスプリットアルバム「WITH A SPLIT」を引っさげ3度目の台湾ツアーを敢行する。台北→台中→高雄と各所のライブハウスを回り、最終日、懇丁での野外フェス「Spring Scream 2007 春天吶喊」では、時間的トラブルにより音響や照明を全て落とされるという異様な状況にもかかわらず、鳴りやまないオーディエンスの歓声に答えるべく最後までライブを強行した。翌月の5月から「WITH A SPLIT ツアー」と題して国内のライブハウスを回り、(ある意味)驚異的な販売記録を残す。暮れにホーン隊の松本と河野がおのおのの理由で脱退。DOUBLE NEGATIVEは結成当初の3ピースに戻る。

2008  年明け早々にドラムセットを購入。以前から思い描いていた野外進出計画をスタートさせる。また、去年までのライブ主体の活動に終止符を打ち、「ノルマは払わない宣言」を発表。さらに、去年の暮れに結成したノーエフを真面目にコピーするバンド、NOTFXの活動を本格化させる。6月、「他人の家や庭で爆音を」をコンセプトにした「AMANE FES vol.1」をTHE BONG BEACH DIVE UP UPS(不定期に活動する社会不適合集団)の協力の下、成功させる。それに味をしめると、9月には完全野外のゲリラフェス「PEAR JAM 2008」を敢行。羽村の大自然に騒音をこだまさせた。10月、清宮が全身墨汁まみれになりながら結婚式を挙げる。11月には上野が就職を決め、晴れてメムバー全員が社会の歯車にギアチェンジをする。

2009  年明け早々、ライブの回数を月1回から2ヶ月に1回に減らし、スタジオの回数を月2回から月1回に減らす。4月の櫻田リストラ騒動(解決)に続き、8月に行われたゲリラフェス「PEAR JAM 2009」は、怒濤の2daysに総勢10バンドと去年の数倍の規模で挑んだが、BBQの食材をあまり余らすことなく無事成功させる。9月、櫻田が満を持して結婚。その後バンドにとってさほどのニュースもなく、平和に年末を迎える。

2010  年明け早々から、たまの練習日には身の上話と近況報告に花を咲かせ、あまり練習もせずに帰宅するようになる。また、メムバー全員が埼玉県民にもかかわらず、都内から来たツアーバンドとして地方のライブハウスに出演し続ける。6月には標高2031mの乾徳山を無事登頂。メムバー全員が肉体の劣化を意識し始める。8月に行われたゲリラフェス「PEAR JAM 2010」は、怒濤の2daysに総勢7バンド・BBQ無し、と去年より多少守りの体制で挑んだ。年末にホーン隊の松本と河野が正式にサブメムバーとして復活する。

2011  年明け早々の1月、いまや完全ホームグラウンドと化した「越谷EASYGOINGS」でのライブを成功させ、メムバーは素敵な1年の到来を予感する。2月には櫻田の第一子(♀)が無事誕生。未来のダブネガメムバーに、現メムバーは「けいおん!」以上の売り上げを期待する。3月には東北大震災とそれに伴う原発事故で、櫻田は実家の除線作業に没頭。バンド活動を一切休止するまでに至ったが、普段もそこまで活動していなかったために、誰にも気付かれずに活動を再開させる。通算4回目の「PEAR JAM」は、清宮のステージテント案で大きく会場のレイアウトを変更。また日程を9月にすることで、すごしやすい空間を構築。出演者やオーディエンスから「虫がいない」と大喝采を浴びる。その後10月に早くも年内のライブを切り上げたために、メムバーは年末まで疎遠になる。
リサイタル
オルタナ時代のダブネガ(1998年)

リサイタル
記念すべき1stデモ(98年)

リサイタル
メインな上野(2001年)

リサイタル
Sink or Swim vol.3(02年)

リサイタル
睾丸を腫らした清宮(03年)

リサイタル
燃えて枠だけになった鹿(07年)before

リサイタル
音が出ないのでギターを置いた(07年)

リサイタル
NOTFX結成(08年)

リサイタル
愛の言葉を身体で表現する清宮(08年)

リサイタル
PEAR JAM 2009(09年)

リサイタル
シートを橋から吊したステージ(11年)

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